ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.9.15 08:27

バカに話をしてもわからない

「話せばわかるというのは嘘。バカに話をしてもわからない」という解剖学者養老孟司さんの『バカの壁』という本がベストセラーになった時、僕は「頭のいい学者さんが、僕みたいなバカをバカ呼ばわりした本が売れてるなんて、身も蓋もないヒドい時代だな」と思って、いい印象を持ちませんでした。

 しかし、いま思えば、それこそが「バカの壁」だったのです。自分がそれまでの生き方から強固に築き上げてしまった壁を前に、対象を見ることが出来なくなっている――それが養老さんの言う「バカ」なのですから。

 本にしても、なんにしても、ロクに読みしないで、中身を知ろうともしないで、感想を言う人が、世の中多いのではないでしょうか! この私も含めて。

 いや、仮に読んだとしても、まったく受け取れないということも、あるのではないでしょうか。

 

 そういう人は、小林よしのりさんの『国防論』を読んでも、「国防」という言葉から受け取った「自分の」イメージについて何か言ってるだけ……ということが多い気がします。

 

 ツイッターの140字も、その人の前後のつぶやきとは無関係に、単語やひとつのフレーズだけ取り出して判断されます。それで判断されても仕方がないというのがツイッターの不文律。

 裏を返せば、人の言っていることを咀嚼しないでも、そんな自分の態度は問われることなく、手軽に「言いたい欲求」が満たせることになります。

 

 そういう表現形式に慣れてしまうと、文脈が作れなくなります。ひとの文脈も読み取れなくなります。条件反射のように、何か言ってるだけになります。

 ゴー宣道場は、すぐに自分が発信者になれるツイッターと違って。ただ参加するだけでも、往復ハガキを出さなければなりません。

 そしてゴー宣道場は「公論」の場です。

 公論ってなんでしょうか。

 「公のことを論じるってことでしょ?」……僕も最初はそんな感じで受けとめていました。

 しかし、ただそれだけなら、公のためを思っているはずが、いつのまにか公のためを思っている「自分」の表出の場になってしいかねません。

「公論」について小林さんは『国防論』の中で「日本国家全体の利益をもたらす公平・公正な方針」と定義づけています。

 つまり公論は、自分だけに都合のいい、自分の承認欲求を満たしてくれるための言論ではなく、自分を超えた、主観の向こう側にあるものとの往還を、想像力として持っていなければなりません。

 その想像力の範囲も、無制限に広く、茫漠としたものではなく、同じ国民として責任を分け合える、この日本という国を単位に考えること。

 

 自分が自分だけに終わらない、その場で当たり散らしたり溜飲を下げるだけに終わらない、考えるに足る視座を持つこと。

その場としてのゴー宣道場には、いまの時代の行き詰まりを超えたものがあると思います。

ぜひ興味を持った人は参加してみてください。

今度のテーマは『国防論』です。一口に「国防」といっても、いったい我々は国民として何を「守る」べきなのか、一緒に考えていければと思います!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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